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                                                                                              イスラム教を信奉する国と地域の歴史

 

 

 

 

 

 

 

 

1. ムハンマドの誕生からイスラム帝国の形成と終焉 (570 - 1258)

 

ムハンマドの誕生

ムハンマドは570年頃にメッカで生まれた。610年頃に、ムハンマドはメッカ郊外で天使ガブリエルより唯一神(アッラー)の啓示を受け、アラビア半島でイスラーム教を始めた。当時、メッカは人口一万人ほどの街で、そのうちムハンマドの教えを信じた者は男女合わせて200人ほどに過ぎず、メッカでの信者達は主にムハンマドの親族か下層民に限られており、迫害の対象となった。そのため、彼は622年メッカを脱出し、メディナに拠点を移した。これをヘジラ(聖遷)と言う。

メディナでは、先住のユダヤ人と対立し、ユダヤ教の習慣に倣ってイスラム教徒もエルサレムに向けて礼拝していたところを、メッカのカーバ神殿へと拝む方角を変えた。現在でも、世界中のイスラム教徒がメッカへの方角に拝礼するのは、この時に始まる。624年にはメッカとの戦いに勝利した記念として、以後イスラム教徒はこの月になると毎年断食をするようになった。後にこの月はラマダーン月となった。今ではこの断食のことをラマダーンと呼ぶ。この後メッカや近隣のユダヤ人との攻防勝敗を繰り返しながら、ムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにメッカを占領し、カーバ神殿にあったあらゆる偶像を破壊して、そこを聖地とした。

メッカを占領する頃になるとムハンマド達は一万人の軍を組織できるようになっていたこともあって、ムハンマドの声望は瞬く間にアラビア中に広まり、以後、全アラビアの指導者たちがムハンマドの下に使節を送ってくるようになった。こうして、イスラム教はアラビア中に伝播した。ちょうど、東ローマ軍の侵攻で、近隣のササン朝ペルシア帝国が衰退していた時期でもあり、それもこうした動きに拍車をかけた。

 

イスラム帝国(ウマイヤ・アッパース朝)の形成

632年にムハンマドはメディナで死に、その後継者にアブー・バクルが就いて、その地位をカリフと定めた。以後アラビア地域の征討戦を経てカリフ制度はイスラム教の政治的中核として定まった。近隣の東ローマ領となっていたシリアに侵攻し、十年もしないうちにイスラム教徒はシリアとエジプトの肥沃な領土を手に入れた。三代目カリフとなったウマルは、642年にはニハーヴァンドでササン朝ペルシア皇帝自らが率いる親征軍を大破してペルシア地域もイスラム教徒に下った。こうして、イスラム教はその軍事活動を以って、教勢を中東中に広げ、周辺地域への遠征活動はその後も続き、短期間のうちに大規模なイスラム帝国を築き上げた。その版図は西では北アフリカ、スペインのアンダルシア、東ではアフガニスタンまで勢力を広げ、アラブ人が異民族を支配する『大世界帝国』へと発展した。第4代カリフの時に首都がクーファからバグダッドに移されて、それが現代のイラクの首都だ。その後クーファはイスラーム諸学の中心地としての地位を保ち続け、コーラン解釈学の始まりの場所でもある。600年の繁栄の後、アッバース朝がモンゴル帝国によって完全に滅ぼされるのは1258年のことである。

 

注) イスラム帝国が滅ぼしたササン朝ペルシャは、その後幾多の変遷を経て、現在のイランとなっている。イラン国民はイスラム・シーア派に属しているが、民族的にはアラブではなく、アーリア系だ。紀元前500年から300年代にアレキサンダー大王によって滅ぼされるまでペルシャ帝国として中東の主であった歴史とプライドを引き継いでいる。

 

2. オスマントルコ帝国の成立から20世紀に終焉を迎えるまで (1299 - 1922)

オスマントルコ帝国は、トルコ人のオスマン家出身の皇帝を戴く多民族帝国で、1453年にはカソリックを信奉する東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都としイスタンブルと改名した。

 

その最盛期に王であったスレイマン一世が統治した時の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。

 

他宗教との融和策「ミレット制」:オスマントルコ帝国には、イスラム教徒以外にも多種多様な宗教を持つ人々がいた。キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体をミレットといい、その中で彼らは独自の宗教を信奉出来た。現在、パレスティナはじめ北アフリカ・中東地域では、民族・宗教紛争が頻発しているが、オスマントルコ帝国では多種多様な人々をゆるやかにひとつの政治社会に包み込んでいた。こうした寛容な支配こそ、オスマントルコ帝国が広大な地域を長期にわたって支配し得た理由のひとつだ。

 

オスマントルコ帝国が最盛期から停滞・衰退に向かうキッカケとなったのは1571年レバントの海戦だ。これはバチカンのピウス五世教皇がスペインとベネツィアと組んで十字軍を結成し、レバントでオスマントルコ艦隊を破った戦いだ。

 

以後西欧キリスト教世界は、ルネッサンス、宗教改革、ポルトガル→スペイン→オランダ→イギリスと変遷する地中海と大西洋の制海権掌握によって力を蓄えて、東西の力関係が逆転する。近代になってイギリスでの産業革命を起点とした経済力をバックとした政治力でオスマントルコ帝国は衰退に向かう。

 

3. 現代のトルコ共和国の成立(1923~)

オスマントルコ帝国は1914年の第一次世界大戦で同盟国側について敗北し、英仏伊・ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体された。これに対してトルコ人たちは国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起し、1920年アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。

 

第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、NATO、OECDに加盟する。国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化を邁進してきたが、その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが大きな障害となっている。

 

4. その他の主要なイスラム教信奉国

ムハンマドの生誕地を起点として拡大してきた上記イスラム帝国・オスマントルコ帝国がカバーした地域以外の主要なイスラム教信奉国は、中央・西アフリカ、アフガニスタン、パキスタン、バングレディッシュ、マレーシア、ブルネイ、インドネシアだ。

 

5. まとめ

ブリタニカ国際年鑑2011によれば、イスラム教徒の世界人口は15.3億人、人口比率は22.5%だ。これに対してキリスト教徒は22.8億人、33.0%で、人口増加率を考慮すれば、現在世界人口の約6割がこの2つの宗教によって占められていることになる。

 

オスマントルコ時代のミレット制の例にもあるように、国の政治経済制度と分離して、宗教が個人の自由として認められる社会が望ましいことが見て取れる。この点で実は日本がもっとも先進的が制度を確立していると言える。

 

 

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